小説「花と龍」の舞台を訪れて
北九州の若松という、小さな町に移り住んだのは約半年前。
地元の方々からは「なーんにもないところに、なんでわざわざ引っ越してきたの?」と今でも不思議そうに尋ねます。
しかしこの若松。
調べれば調べるほど、まるでスルメのように、味ある歴史や文化がざくざく掘り出すことができる稀有な町。
そのひとつが、「火野葦平(ひのあしへい)」という芥川賞作家を生み出したこと。
実は数か月前、まだ残暑で汗ばむ週末、県外の実家に住む文学好きの母を呼んで、若松が舞台の彼の代表的小説「花と龍」をテーマに、若松の町を散策してみたのですが、新たな発見や思いもよらない出会いに、母は思いのほかに喜んでくれたようで、その喜びようといったら、なんと読売新聞の「私の日記」コーナーに投稿したほど!
「えいこ(私の名前)と一緒に歩いた若松の旅の思い出を形にしたくって」
とメールで伝えてくれた母の気持ちを大切にしたくて、残念ながら掲載に及ばなかったその投稿文を、こちらで発表したいと思います。
(下記、母の文章を抜粋)
明治、大正、昭和と近代産業を担ってきた石炭の積出港(洞海湾)を舞台に、港湾労働者の人生模様を描いた作者(火野葦平)の父、金五郎、母、マンをモデルとした伝記小説。
そのゆかりの地を訪ねる旅を娘がプレゼントしてくれた。
金五郎が瀕死の重傷を負ったとき、マンが必死でお百度を踏んだという蛭子神社(現:恵比寿神社)、白山神社、金毘羅さんにもお詣りしてきた。
夜は、明治28年創業の老舗の料亭「金鍋」で食事することができ、また、ここが葦平と妻ヨシノの出会いの処であったと聞く。
ここで執筆したという「葦平の間」もそのままあった。
市民会館の葦平資料館には、明治29年に4円70銭で買ったという柱時計もかけられていた。
金五郎、マン、葦平の眠る安養寺にも行き、手を合わせることができた。
最後は葦平の旧居「河伯堂」へ。どっしりとした日本家屋で、時おり涼風が部屋をわたり、しばしタイムスリップしたような気持ちになる。
二階の書斎に通され、この場所で自ら人生を終えたと聞いたときは、ドキッとする。
ここの館長をつとめる葦平の三男の方と一緒に写真におさまり、若松の文化を知る楽しい旅ができました。
上記はえいこ姉からの若松の旅のプレゼントの思い出を、読売新聞の西部本社の「私の日記」コーナーに投稿した。
(ここまで)
(下記、私の感想と解説)
終始一貫して、日記というよりもむしろ取材記録のような、感情のない文章です。
けれでも、その文章の間隙からは、母の気持ちがまるで清らかな泉のようにこんこんと滲みでているのを読み取ることができます。
それは、今回の旅で母が行きたいという葦平所縁のポイントがすべて、「夫婦の愛情」、「その愛情の中で生まれた子供たちの成長と行く末」に関係するものであり、
火野葦平の家族や小説を通してそれらを感じたいという強い意志を感じ取ったからです。
実は、上記淡々と記録されているものは、ほとんど、「奇跡的な偶然」で知り得たものばかり。
たとえば、金鍋で葦平とヨシノが出会ったということは、料亭の仲居さんとの会話の中で「偶然」知り得たことだし、
4円70銭で買ったという柱時計は、金五郎がマンとの生活を始めたときに、マンとの末永い暮らしを願って奮発して買ったものということが小説が描かれていて、それを実際に見てみたいなあという母の言葉を、まるで誰かが叶えてくれたかのように、まさかの本物が展示されていたのです。
さらに、一番の奇跡的な偶然の出会いは、葦平さんの実の息子さんと会えて話ができたことです。
というのも、旅の最初から、母はずっとずっと、葦平さんの子供たちについて心配していたからです。
「葦平さんとヨシノさんとの子供たちについては、小説にも全然でてこないんだけど、どうされているのかなあ。もう若松をとっくに離れているのか、もうこの世にはいらっしゃらないのか、葦平さんの血を継いだ方は、もう、若松にはいらっしゃらないのかしら。」
まさに万物の母の目線で、葦平さんの家族とその子孫を思うその気持ちが、現実の姿となって立ち現れます。
河伯堂の濡れ縁で、穏やかな表情で葦平の息子と語らう母を見ていると、小説も、時代も、空間すらも超えて、人は出会い対話をすることができるということを肌で学ぶことができたような気がします。
小説「花と龍」とてもお勧めの本です。
【復刻版】火野葦平の「花と龍(上)」―戦前の北九州を舞台にした実名大河小説 (響林社文庫)
- 作者: 火野葦平
- 出版社/メーカー: 響林社
- 発売日: 2015/05/09
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God Hands-神の手とは?
もう何年も前になります。マッサージのスクールに通っている友人の練習台(笑)として、人生で二度目のマッサージを受けてきたことがありました。
ちなみに、一度目はインドでした。
意味も分からないまま全裸にされ、しかも、ちょっとくらい恥ずかしい場所を隠してくれればいいものを、そのまま、当時20代前半だった、乙女だった私は、全裸のまま、よく分からないオイルをぬりたくられて、 ゴシゴシ、ゴリゴリと音が鳴るような「マッサージ」を受けました。
恥ずかしいのと、痛いのと、くすぐったいのと、もう、ホントよく分からない不快感 で、「OK!! OK!! That's enough!!!」と叫んでいたと思います。
(図的にも相当恥ずかしい)
そんなほろ苦い経験があったものだから
「マッサージ」=「痛い上に気持ち悪い」
という図式が私には完全にできあがっていて、その友人からのお誘いにも、はじめは「う~~ん」と躊躇してしまったのが正直なところでした。
しかし
彼女のマッサージは、そんな私の「ネガティブ思考」さえ溶かしてしまうほど素晴らしい施術でした。
部屋の温度、湿度、光の明暗、香り、そして聞こえてくる音にもさりげない心遣いがあって、何よりも彼女の手が、なんていえばいいんでしょう、カイロみたいに すごくあったかくて、私の皮膚がなんの敵対心も拒絶反応もせずに、彼女の手をまるで私自身の皮膚として受け入れるような感覚がとても気持ちよくて、「あぁ、これぞ神の手だ…。」なんてつぶやきながら半分眠りこけていたと思います。
そういえば
フィジーで暮らしていたときも、God Hands-「神の手」の噂が、まるで白い煙のように時々姿を現していました。
職場でのお茶の時間に、日曜の教会からの帰り道に、バスに乗っているときたまたま隣合せしたおばちゃんの口からも。
「誤って熱湯を足にこぼしてしまって、大火傷をしてしまったんだけど、God Handsに手当てをしてもらったら、すっかり良くなったのよ」
にこにこしながら話すフィジアン(=フィジー人)の友人に、日本人としての教育を受けてしまっている私は思わず、
「ラスラス~~~!!(うそだ、うそだ~~)」
と からかうと、
その友人だけでなく、近くにいたフィジアンたちもわらわらと周りに集まってきて、しかも、いつもはヘラヘラ笑いながら踊ってばかりいる彼らが、真顔で、
「うそなんかじゃないよ、俺は、この怪我をGod Handsに治してもらったんだぞ」
と、治りかけた傷の跡を見せてくれたり、
「私の赤ちゃんは高熱をだしたときにGod Handsに熱を下げてもらったのよ」
などなど、リアル実体験でもって私にせまってくる始末でした。
そんなリアル証拠でせまられても、どうして、God Handsがフィジアンの病気や怪我を治していくのか、私にはやっぱり分かりません。
けれど
そんな私でも間違いなく言えそうなのは、
- 「自分の手」だと多分効果があんまりないってことと、
- 他者の手でも、病んでいる者に対する、深い「愛」(←セックスの対象の意味ではなくて)を持つ「手」に何かがあるかもしれないってことでしょうか。
もしかすると、「手」を媒介とする「思い」-「生命のエネルギー」が、他者の病や傷を癒していくのかもしれません。
人は他者にさわり、さわられていることを必要としている。
動物実験でも、人間に対する研究でも、身体的な接触を絶たれた個体は不安になり、適応力が低下し、 病気になりやすいという結果がでている。
さまざまな文化にわたる研究でも、性的な抑圧や人との身体的接触が絶たれた社会が暴力を生みやすいということが分かっている。
(ナチュラルメディスン、アンドルー・ワイル著から抜粋)
God Hands あなたはどう思いますか?
- 作者: アンドルーワイル,Andrew Weil,上野圭一
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コミュニケーションに重要なものとは?
台風の影響か、思考すらも散り散りに吹き飛ばされそうです。
下記、昔書いた記事を少し編集したものです。
散り散りになった記憶と記憶を折り重ね、新たに紡ぎなおしました。
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「禅と脳」(玄侑宗久、有田秀穂)という本の中で、脳神経学者でセロトニン神経に着目している有田さんが、禅僧の玄侑さんに、
「【気】とは何だと思いますか?」
と尋ねています。
「内外ともにコミュニケーションを成り立たせているエネルギーの動きだと思います」
と玄侑さんは答え、その理由をつらつらと話されているのですが、私はふんふんと字面を目で追いながら、昔、東工大の学生だった友人が研究室の教授から聞いたという話をぼんやりと思い出していました。
「君たち一人一人は別の個体、別の個性であるのと同時に、地球エネルギーの循環の一員でもある。それはフィジカルな意味においても、もしかするとメンタルな意味においても。」
教授の言葉に刺激を受けた私の脳みそは、そのまま私を記憶の海の中へといざないます。時空の波を超え、かつて住んでいた南の国、フィジーへと。
ふと、気づくと、薄暗いバスの中で、勢いよく流れ込む冷たい風を受けていました。海に落ちて消えた太陽の周辺には、ゆらゆらと淡い紅の残像が揺れていて、少しずつ闇の気配がしてたような気がします。いえ、もう、辺りはすっかり暗くなっていたかもしれません。
とにかく、その日はとても疲れていて、勢いよく走るバスの中、後部座席の一番奥のほうに身を小さくして眠ろうとしていました。大きく揺れるたびにハッとして 目が覚め、そのたびに、黒く浮かぶ椰子の葉が窓の外を流れていくのをぼんやりと眺めていました。その向こうには恐ろしいほどに黒く光る海が静かに波をたた せていました。
バスの中には、ひとつだけ小さな裸電球が運転席の横につるされてあって、やっと周りがみえる程度でした。乗客は数えるほどしかいなく、エンジンの音だけが轟々と響いていました。
そんななか、なんとはなしに、一番前の座席に並んで座っているフィジアン女性の2人がなにやらボソボソと会話を始めたのが目にとまりました。
彼女らの額の双方から淡くてほんのりと赤い、まるで夕日の残像のような光があふれていて、私は、眠りに落ちながら、ああ、なるほどね、と妙に納得していたような気がします。
はたと目が覚めました。
少しうたた寝していたようです。横には開いたままの本。
活字に再び目を落とします。
本の中では、科学者である有田さんが、腑に落ちない感じで玄侑さんに尋ねています。
「先ほど、【エネルギー】といわれたけれども、コミュニケーションするときにまず重要なのは言葉というツールですよね?さらに五感を総動員させるわけでしょ」
「そうですね。ただ、情報として感知するのは、五感以前の器官だろうという気がします。もっと原始的で直接的な形のもの・・。脳でいえば、もっとも原始的な場所、脳幹部にその中心があるような交流というんでしょうかね」
その言葉を受けて、有田さんが閃いたように言葉を繋ぎます。
「実は、セロトニン神経の細胞は脳幹にあるんですよ」
人はなぜ恋に落ちるのか
面白い本を見つけました
人類学者、女性、NY在住の著者が、「愛」を生み出している感情をさぐるために、 f MRI、すなわち脳内スキャンを使ってその脳内活動を記録して、結果を考察するという内容です
「つい最近、激しい恋に落ちた人はいませんか??」
NY州立大学の掲示板にこんなチラシが貼られ、その、「激しい恋」をしている男女の脳内をスキャンする
もう、それを想像するだけで、面白い(笑)
「モラルアニマル」(Robert Wright 著)や、「脳が「生きがい」を感じるとき」(Gregory Berns 著)に続いて、ハマりました
でも、なぜ恋に落ちるのか (Why) 、落ちたらどうなるのか (How) については進化論やら動物行動学やらも含めて面白い展開を進めているのですが、そもそも「恋」って何だろう (What) については、書かれていないようでした
そもそも「恋」って何だろう
もう、20年ちかい昔、そのときとても仲良しだった男友達に、真夜中の電話で同じ事を尋ねたことがあります
恋って何なんだろう・・
友人は電話の向こうでしばらく考え、沈黙した部屋の外からは虫の音が聞こえてきて、私は電話を持つ手を右から左にかえました
「たとえば」
友人の少しくぐもった声が言葉を紡ぎ始めました
「想像してみて。君は今公園にいる。季節はそうだな~~、緑が水分をたっぷり含んでいる春。天気がよくって、空は透き通っていて、君はベンチで本を読んでいる。ページを一枚、一枚、ゆっくりとめくっていて、ときおり猫が通り過ぎる穏やかな午後の休日
ふと、本から目を離して、あら、と思って空を仰ぎ、手のひらを宙に浮かべる。穏やかな空気の中に、ほんのりと湿気を含んだ風が君の頬をかすめたような気がしたから
その時、丁度その時、その右手の人差し指に最初の雨粒が一粒落ちるー」
「恋ってこういうことかもしれない。」
私が公園にいることも、ベンチに座っていることも、本を読んでいることも、あらと思って右手を宙に浮かべることも、その人差し指に、たまたま雨粒が一粒落ちてくることも、ただの日常
日常の枠は超えてはいない
けれど
視点を「私」から空中に飛ばし、雲の上にまで持っていくと、その瞬間、雨雲をつくり、一番最初の小さな雨粒がまさしく私の人差し指に落ちることは、天文学的な偶然の結果起こりえた奇跡なのかもしれない
こんな風に、日常の隙間に重なっていく偶然と偶然が、互いの脳みそのどこか(本では前頭葉といってますが、私は寧ろもっと原始的な脳幹のような気がします)が発火して恋が始まるー
そんな、ふとした偶然に物語が紡ぎだされたとき、織重なる偶然は必然へと姿を変え、人は恋に落ちていくのでしょうか
あなたの場合はどうでしたか?
- 作者: ヘレンフィッシャー,Helen Fisher,大野晶子
- 出版社/メーカー: ソニーマガジンズ
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大和言葉が深すぎて、やばい -「きたない」の語源より
『古事記』を別の視点から解釈している『新釈古事記伝』(阿部國治 著)
友人から、とにかく読んでみてと(ほぼ強制的に)全集を貸してもらった(押しつけられた)ので、(仕方なく)頁をめくって読み始めたところ、これが、これまでの固定観念ひっくり返って唖然とするほどの名作でした。
これまでのスサノオノミコト像をひっくり返す新たな分析と斬新な解釈は勿論のこと
(確かに、これまでの古事記に出てくる彼は、日本を代表する神のはずなのに、単なる残念な暴れん坊としか描かれていなかったように感じます)
なにより、本にちりばめられた、大和言葉の語源の深さに深く感銘を受けたのです。
たとえば「きたない」という言葉の語源について。
「きた」という言葉の語源は「順序」「秩序」という意味だそうで、それがない状態、すなわち、「秩序やけじめがない」、「整頓されていない」状態の心のことを、「きたなきこころ」だそうなのです。
では、どういう状態が「心」にとって秩序やけじめがないのかというと。。。
神道では、各人がもっている「心の動き」は すべて「必要」という考え方で、 普通はネガティブに捉えられる「怒る」「泣く」「争う」という動きもみな必要な心の動きとしているのだそう。
「邪心」と捉えられがちな「欲望」ですらも、神さまから授かったものとしてそれは尊いものだとされていて、じゃあ、何が問題なのかっていうと、
どんなに必要な心の動きであっても
どんなに必要な欲望であっても
その動き方が「適当でなかったら」よくないということになるのだそうです。
たとえば「食欲」そのものは、生命とつながり、自身を育む尊いことなのだけれど
それが、食べてはいけないときに「食べる」という食欲の動きだったらよくないもの、という整理。
この、「よくない心の状態」を指して「きたなきこころ」という言葉は生まれたそうなのです。
先の例の「食欲」では、食べちゃいけないときに、食べようとする状態の心を指すときに「きたない」と表現。
たしかに、食べてはいけない場に、食べようとする人を指して 「いじきたない人」っていいます。
他の例では、部屋にちらばっている「塵」は「きたない」けれど 塵箱にきちんとおさまった塵は「きたなくない」とか、どんなに高価な宝石だとしても、それが部屋に散らばって放っておかれていたら、それは「きたない」として整理されることにも、納得です。
さらに、「怒る」という心の動きにしても
たとえば、本来だったらきちんと怒らないといけない場面で (例:子供が悪さしたとき/ イジメを目撃したとき)に何もしない心の動きについても 「きたない」と表現され、頷けます。
ちなみに、人間の心遣いや行動に「きた」があるかないかは何によって定まるのか、というと、これを定める標準を与えるものが「おひさま」らしいです。
これも、とても科学的だなって思います。
「きたなきこころ」なき暮らし
今の私の最優先事項です