大和言葉が深すぎて、やばい -「きたない」の語源より
『古事記』を別の視点から解釈している『新釈古事記伝』(阿部國治 著)
友人から、とにかく読んでみてと(ほぼ強制的に)全集を貸してもらった(押しつけられた)ので、(仕方なく)頁をめくって読み始めたところ、これが、これまでの固定観念ひっくり返って唖然とするほどの名作でした。
これまでのスサノオノミコト像をひっくり返す新たな分析と斬新な解釈は勿論のこと
(確かに、これまでの古事記に出てくる彼は、日本を代表する神のはずなのに、単なる残念な暴れん坊としか描かれていなかったように感じます)
なにより、本にちりばめられた、大和言葉の語源の深さに深く感銘を受けたのです。
たとえば「きたない」という言葉の語源について。
「きた」という言葉の語源は「順序」「秩序」という意味だそうで、それがない状態、すなわち、「秩序やけじめがない」、「整頓されていない」状態の心のことを、「きたなきこころ」だそうなのです。
では、どういう状態が「心」にとって秩序やけじめがないのかというと。。。
神道では、各人がもっている「心の動き」は すべて「必要」という考え方で、 普通はネガティブに捉えられる「怒る」「泣く」「争う」という動きもみな必要な心の動きとしているのだそう。
「邪心」と捉えられがちな「欲望」ですらも、神さまから授かったものとしてそれは尊いものだとされていて、じゃあ、何が問題なのかっていうと、
どんなに必要な心の動きであっても
どんなに必要な欲望であっても
その動き方が「適当でなかったら」よくないということになるのだそうです。
たとえば「食欲」そのものは、生命とつながり、自身を育む尊いことなのだけれど
それが、食べてはいけないときに「食べる」という食欲の動きだったらよくないもの、という整理。
この、「よくない心の状態」を指して「きたなきこころ」という言葉は生まれたそうなのです。
先の例の「食欲」では、食べちゃいけないときに、食べようとする状態の心を指すときに「きたない」と表現。
たしかに、食べてはいけない場に、食べようとする人を指して 「いじきたない人」っていいます。
他の例では、部屋にちらばっている「塵」は「きたない」けれど 塵箱にきちんとおさまった塵は「きたなくない」とか、どんなに高価な宝石だとしても、それが部屋に散らばって放っておかれていたら、それは「きたない」として整理されることにも、納得です。
さらに、「怒る」という心の動きにしても
たとえば、本来だったらきちんと怒らないといけない場面で (例:子供が悪さしたとき/ イジメを目撃したとき)に何もしない心の動きについても 「きたない」と表現され、頷けます。
ちなみに、人間の心遣いや行動に「きた」があるかないかは何によって定まるのか、というと、これを定める標準を与えるものが「おひさま」らしいです。
これも、とても科学的だなって思います。
「きたなきこころ」なき暮らし
今の私の最優先事項です