未来が変わる読書堂

知性と直観でもって自身を変える。読書を通して、豊かに自立したミニマムな暮らしをしていくための実践方法は勿論のこと、カラダとココロを美しく維持する生活習慣方法やお金というエネルギーの管理方法についても共有できたらと思っています。

小説「花と龍」の舞台を訪れて

北九州の若松という、小さな町に移り住んだのは約半年前。

地元の方々からは「なーんにもないところに、なんでわざわざ引っ越してきたの?」と今でも不思議そうに尋ねます。

しかしこの若松。

調べれば調べるほど、まるでスルメのように、味ある歴史や文化がざくざく掘り出すことができる稀有な町。

そのひとつが、「火野葦平(ひのあしへい)」という芥川賞作家を生み出したこと。

火野葦平 - Wikipedia

実は数か月前、まだ残暑で汗ばむ週末、県外の実家に住む文学好きの母を呼んで、若松が舞台の彼の代表的小説「花と龍」をテーマに、若松の町を散策してみたのですが、新たな発見や思いもよらない出会いに、母は思いのほかに喜んでくれたようで、その喜びようといったら、なんと読売新聞の「私の日記」コーナーに投稿したほど!

「えいこ(私の名前)と一緒に歩いた若松の旅の思い出を形にしたくって」

とメールで伝えてくれた母の気持ちを大切にしたくて、残念ながら掲載に及ばなかったその投稿文を、こちらで発表したいと思います。

 

(下記、母の文章を抜粋)

明治、大正、昭和と近代産業を担ってきた石炭の積出港(洞海湾)を舞台に、港湾労働者の人生模様を描いた作者(火野葦平)の父、金五郎、母、マンをモデルとした伝記小説。

そのゆかりの地を訪ねる旅を娘がプレゼントしてくれた。

金五郎が瀕死の重傷を負ったとき、マンが必死でお百度を踏んだという蛭子神社(現:恵比寿神社)、白山神社、金毘羅さんにもお詣りしてきた。

夜は、明治28年創業の老舗の料亭「金鍋」で食事することができ、また、ここが葦平と妻ヨシノの出会いの処であったと聞く。

ここで執筆したという「葦平の間」もそのままあった。

市民会館の葦平資料館には、明治29年に4円70銭で買ったという柱時計もかけられていた。

金五郎、マン、葦平の眠る安養寺にも行き、手を合わせることができた。

最後は葦平の旧居「河伯堂」へ。どっしりとした日本家屋で、時おり涼風が部屋をわたり、しばしタイムスリップしたような気持ちになる。

二階の書斎に通され、この場所で自ら人生を終えたと聞いたときは、ドキッとする。

ここの館長をつとめる葦平の三男の方と一緒に写真におさまり、若松の文化を知る楽しい旅ができました。

 

上記はえいこ姉からの若松の旅のプレゼントの思い出を、読売新聞の西部本社の「私の日記」コーナーに投稿した。

(ここまで)

 

(下記、私の感想と解説)

終始一貫して、日記というよりもむしろ取材記録のような、感情のない文章です。

けれでも、その文章の間隙からは、母の気持ちがまるで清らかな泉のようにこんこんと滲みでているのを読み取ることができます。

それは、今回の旅で母が行きたいという葦平所縁のポイントがすべて、「夫婦の愛情」、「その愛情の中で生まれた子供たちの成長と行く末」に関係するものであり、

火野葦平の家族や小説を通してそれらを感じたいという強い意志を感じ取ったからです。

 

実は、上記淡々と記録されているものは、ほとんど、「奇跡的な偶然」で知り得たものばかり。

たとえば、金鍋で葦平とヨシノが出会ったということは、料亭の仲居さんとの会話の中で「偶然」知り得たことだし、

4円70銭で買ったという柱時計は、金五郎がマンとの生活を始めたときに、マンとの末永い暮らしを願って奮発して買ったものということが小説が描かれていて、それを実際に見てみたいなあという母の言葉を、まるで誰かが叶えてくれたかのように、まさかの本物が展示されていたのです。

さらに、一番の奇跡的な偶然の出会いは、葦平さんの実の息子さんと会えて話ができたことです。

というのも、旅の最初から、母はずっとずっと、葦平さんの子供たちについて心配していたからです。

「葦平さんとヨシノさんとの子供たちについては、小説にも全然でてこないんだけど、どうされているのかなあ。もう若松をとっくに離れているのか、もうこの世にはいらっしゃらないのか、葦平さんの血を継いだ方は、もう、若松にはいらっしゃらないのかしら。」

まさに万物の母の目線で、葦平さんの家族とその子孫を思うその気持ちが、現実の姿となって立ち現れます。

 

河伯堂の濡れ縁で、穏やかな表情で葦平の息子と語らう母を見ていると、小説も、時代も、空間すらも超えて、人は出会い対話をすることができるということを肌で学ぶことができたような気がします。

 

小説「花と龍」とてもお勧めの本です。